創造的仕事の社会学

たとえ組織の中に居ても、雇われているだけの仕事でなく、あくまでも自発的に物事を創出するようなスタイルとは? 惑うことなく豊かな精神性を持って仕事に向かいたい人々のためのエッセイ集。

1.4. 「創造的仕事」という仕事

前記事のように、仕事は自由の効かない「苦役」の意味を多分にもつ性質の行為なのだと考えられる。しかし、そのような性質をもつとはいえ、仕事を社会システムから一方的に言い渡される「苦役」ととらえるかどうかは自分次第であるとも言える。

  仕事とは上述の考えからすれば、社会システムと自分とのかかわり合いの形態である。べつに仕事でなくても社会システムと関係できることもあろうが、仕事が社会システムにおいて必要とされる行為なのだから、最も端的にこれとのかかわり合いを具体的に媒介するものと考えることができる。社会的動物である人間は、本能的に社会システムに溶け込むようにしてその社会システムそのものを紡ぎ出していく自分という個人の存在を感じられることを望むのであろう。だから私たちは仕事をしようとする。しかし社会システムへの不満が募り、自分がこの社会システムの中での疎外感を増幅させると、仕事という社会システムへの媒介機能を活用しようとしなくなってしまうであろう。

  社会システムとは、本来的には個人の考えを反映しながらも同じシステムに属する他者の考えをも反映した、所属する人々が皆共有するものの集合であるというのが理想的であるが、現実にはそうもいかない。実際のところ、個人からすれば多くの場合、社会システムとは、自分と異質の性格を帯びた巨大な網の目として映るものである。それは個人が持つ性質の多様化という現代の特色なのである。

  したがって、私たち一人ひとりが仕事によって社会システムに溶け込んでいるという一体感を感じ、そのシステムの一部を自分で「つくっている」という感覚を持てることが、仕事を単に苦役であるとしか感じられず、仕事に否定的な感覚をもってしまうことを回避するための条件であろう。

  クリフォード・ギアーツは文化というものを蜘蛛の巣に喩えた。その比喩を借りれば、人間とはみずから紡ぎだした網の目に囚われた動物であり、そのような網の目を社会システムというのである。時には敵視されることもある社会システムも、自らが生んだものであるという意識をどれだけ持てるのかが、仕事を苦役としてみてしまうかどうかに依存していると言えよう。だからこそ、社会システムを紡ぎ出す自分ーーすなわち、なんらかの物事を「つくる」ことの感覚ーーが、よりよい仕事のためには肝要であり、こうして創造的仕事とは何かという観点が重要な意味を帯びるのである。

 

おわり

 

1.3. 苦役としての仕事

「しごと」という言葉がすでに登場している江戸時代において、百姓の日々の仕事は「苦役」の意味が多分にあったであろうということは想像に難くない。この仕事の背景には武士との身分的格差が存在し、主に年貢を媒介とした支配関係において、百姓の仕事は本来的に強いられたものであった。生まれながらにして農民の子であれば、自ずと親の仕事を手伝って成長し、大人になっても農業で生計を立てるしか道がない場合が多かったであろう。この頃は職業によって身分が仕切られていたとは言えないが、身分階級は世襲であり、身分によって職業に選択の自由はなかったため、仕事についてもほとんどの場合は選択自由のないものであったと考えるのが妥当である。

  これに対してわが国のような自由主義国家における現代の職業選択の自由は、私たちが生まれながらにしてもつ権利であるとされる。ところが選択自由があるにもかかわらず、私たち現代人は「仕事」という存在によって大きな苦悩を抱えてしまっている。これは何故か。

  ここで現代の仕事といっても非常に多くの種類があるから、どのような仕事について論じるのかには整理が必要であろう。いまは出来るだけ一般性の高い議論としたいから、ここでは「自らの行動を全部自分で決められる代わりに、全部の責任を背負う仕事」と「そうでないと仕事」のたった二つに分けることにしよう。前者の仕事は多くの場合、自営業となろう。飲食店の主人、スポーツ選手、芸術家、芸能人、フリーライターなどである。一方、後者の仕事とは、全部の仕事を決められない代わりに、責任は他者がとってくれるような仕事、すなわち、別に責任者が居る仕事である。これは組織の中に身を置き、その所属によって自分の仕事への大義名分を獲得しているケースである。後者に該当する人々の方がわが国では圧倒的に多い。8〜9割が給与や報酬を組織のルールに則って得ている。

  自営業の場合は、まさにすべての仕事を自分で選んで「すること」に決めて実行されるが、それが社会システムのためにならなければ、たとえそれをすることの自由があったとしても、すぐに立ちいかなくなる(儲けがない)。その場合は仕事を続けることはできないから、仕事の選択自由があるとはいえ社会によって当の仕事の存在意義が評価され、その仕事が「するべきこと」かどうかが決まる。したがって、基本的には社会にとってするべきことを探索し発見できなければならないのであるが、発見されたするべきことが、当初は自分がすることとして想定していたものとは全く異なることも少なくない。つまり、選択の自由があるようで、最終的には社会システムによって選択されるものだと表現するほうが的を得ている。

  一方、組織に所属し、そのなかの秩序において仕事を得る者は、その組織にとっての「すること」に沿わなければならない。やりたくもない仕事を上司から命令されるとか、希望する仕事をまったくやらせてもらえなかったりと、多くの場合、「すること」は組織という小さな社会のなかで決められる。言い換えれば、現代の組織においても、組織内での仕事は支配者による役割分担であり、江戸時代の社会システムと変わらない側面を持つ。特に民間の企業組織にしろ、官公庁などの公的組織にしろ、そこでの仕事の様相としては、チョンマゲや帯刀こそ無いものの、現代になお残る封建制度そのものである。

  このように自営業であれ組織に身を置く場合であれ、仕事を自分で選択する真の自由というのはほぼ無いのが仕事の本質である。いずれにしろ、社会システムのために必要な行為のみが、生存可能な仕事となりうる。こうして、現代でもなお、仕事は自由の効かない「苦役」の意味を多分にもつ性質の行為なのだと考えることができる。

→つづく

 

1.2. 社会システムのための仕事

前記事のように、仕事というのは本来的には単に「すること」といったありふれた意味であるが、そのなかでも他者のために向けられた行為について、他者から仕事と認められるものである。すなわち、仕事が仕事である条件は絶対的に決められるものではなく、仕事とはそのときその状況において、他者がどのようにその行為に価値を見出すかによって相対的に決まるような社会的な存在である。それでは何故、仕事はこのように社会的存在としての性格をもつに至ったのだろうか。

  ここで社会とは、人間が共に生き長らえ、安心・安全の生活、もしくは豊かな生活を送るために、複数の人間が寄り集まって一体となった機能を発揮させるためのシステムである。ホモ・サピエンスたるわれわれは太古より、個人が荒野で生きるよりも、様々なしくみを備え複雑性が構築された社会を形成し外部環境に対峙するほうが自らの生存確率が高まるということを体現してきた。今も昔も、人間にとって集団のもつ要素機能の複雑性の保持こそが外部環境の変化に対応するための有効な方法であった。言い方を変えれば社会的行為を望み、創造的に要素機能をつくっていくことを最善とする特性をもった種としてわれわれは生き延びてきたのである。

  ところが、社会という一つのシステムが安定に存続することを乱す要因としては、システム外部からの擾乱(天候、自然災害、外敵からの侵略、など)だけではない。社会という一つの有機体を築くのは個人個人の創造的行為の結集ではあるが、実はその創造性こそが当の社会的システムを破壊する要因となりうる。類い稀なる創造性を備えた個人を起点として変革的な集団が出来始め、既存の社会的システムを破壊し、新たなシステムを構築するということは、これまでの人類史を見ても明らかである。

  アリや蜂といった種は、人間から見ても驚くような外乱に対する安定性をもった社会的システムを構築しているが、これらは生得的にもつ役割を分担し仕事をしており、そこに人間に匹敵するようなレベルの創造行為が多分にあるとは言えないため、内部からの変革によるシステムの破壊に対応する必要がない。したがって、アリや蜂などの社会システムはとても安定的に存続しはするが、その複雑性が加速度的に発展することはなく、発展のためには突然変異的な自然の力を借りなければならないであろう。

  こうしたことから、人間の社会システムの安定のために特に重視されなければならないのは、個人レベルの創造性が他者へ与える行為である。社会システムの維持に対して悪影響を与える創造行為は厳しく取り締まろうとしたのが、われわれ人間の歴史であった。

  だからこそ「仕事」とは、社会的システムからすれば誰かが自発的に「すること」の意味からずれて、社会が「させること」、「担わさせること」、あるいは社会が個人に「従わせること」として個人に与える「役割」となった。仕事が「苦役」を意味する人類の「仕事の歴史」はこのような経緯により成立したと考えられる。

  こうして仕事は、「すること」という素朴な意味を越えて、時代とともに移り変わる身分制度などの社会構造上の文脈から大きな影響を受けながら、みずから他者のためにすべきことと思って自由に「すること」を決めて成立するのではなく、社会システムから支配的に与えられ、そこで成果を出すことで自分の生存を認められ、あるいは何かへの所属を認められうるものとなった。これは現代にも残存する仕事の一つのアスペクトである。

 

→続く

 

1.1. 仕事の本来的意味

現代的な感覚では、「仕事」というと、生計を立てるための行為、すなわち、金銭を得るための行為を指すと考えるのがふつうであろう。しかし、「仕事」の「し」とは、語源的にはサ行変格活用の動詞「する」の連用形の「し」であり、すなわち仕事とは本来「すること」の意である。これが単に「すること」全般を意味するのではなく、「すべきこと」というニュアンスをもつことで、現在の仕事の意味に通ずる言葉となった。

  仕事の意味を本来的なものに戻して考えることは、仕事とは何かを考えることに役立つ。たとえば「呼吸をする」というのは人間が必ず「すること」であり、また「すべきこと」である。それでは無意識に行なっている呼吸は仕事なのかというと、多くの人にとってそれは仕事とは言い難いであろう。

  ところが、歌手やアナウンサー、通訳、ナレーター、水泳選手やマラソンランナーといった呼吸を巧みに使うべき職業の人々はどうであろうか。呼吸を乱さずにいるということはとても大切なことであろう。特に際立って呼吸を職業にしていない人においても、プレゼンテーションや、スピーチや討論においては、呼吸法というのがとても重要となる。つまり、呼吸することも仕事のうちとなろう。肝心な点は、そのような仕事としての呼吸は無意識的なものではなく、無意識にできるような訓練の期間があることや、呼吸の巧みさという点で他者のためになるような積極的な行為であるという点である。その呼吸が当の本人の生命維持のためのみのものであるならば特にそれを仕事と呼ばないが、誰かのための呼吸であるならば容易に仕事となりうる。

  「すべきこと」の「べき」という義務が自分ではなく他者に向けられたものであるとき、その「すること」は仕事として他者から認められる。こうして自分と他者との関係性の中にこそ仕事というものがあるという見方ができよう。

 

→つづく