創造的仕事の社会学

たとえ組織の中に居ても、雇われているだけの仕事でなく、あくまでも自発的に物事を創出するようなスタイルとは? 惑うことなく豊かな精神性を持って仕事に向かいたい人々のためのエッセイ集。

1.3. 苦役としての仕事

「しごと」という言葉がすでに登場している江戸時代において、百姓の日々の仕事は「苦役」の意味が多分にあったであろうということは想像に難くない。この仕事の背景には武士との身分的格差が存在し、主に年貢を媒介とした支配関係において、百姓の仕事は本来的に強いられたものであった。生まれながらにして農民の子であれば、自ずと親の仕事を手伝って成長し、大人になっても農業で生計を立てるしか道がない場合が多かったであろう。この頃は職業によって身分が仕切られていたとは言えないが、身分階級は世襲であり、身分によって職業に選択の自由はなかったため、仕事についてもほとんどの場合は選択自由のないものであったと考えるのが妥当である。

  これに対してわが国のような自由主義国家における現代の職業選択の自由は、私たちが生まれながらにしてもつ権利であるとされる。ところが選択自由があるにもかかわらず、私たち現代人は「仕事」という存在によって大きな苦悩を抱えてしまっている。これは何故か。

  ここで現代の仕事といっても非常に多くの種類があるから、どのような仕事について論じるのかには整理が必要であろう。いまは出来るだけ一般性の高い議論としたいから、ここでは「自らの行動を全部自分で決められる代わりに、全部の責任を背負う仕事」と「そうでないと仕事」のたった二つに分けることにしよう。前者の仕事は多くの場合、自営業となろう。飲食店の主人、スポーツ選手、芸術家、芸能人、フリーライターなどである。一方、後者の仕事とは、全部の仕事を決められない代わりに、責任は他者がとってくれるような仕事、すなわち、別に責任者が居る仕事である。これは組織の中に身を置き、その所属によって自分の仕事への大義名分を獲得しているケースである。後者に該当する人々の方がわが国では圧倒的に多い。8〜9割が給与や報酬を組織のルールに則って得ている。

  自営業の場合は、まさにすべての仕事を自分で選んで「すること」に決めて実行されるが、それが社会システムのためにならなければ、たとえそれをすることの自由があったとしても、すぐに立ちいかなくなる(儲けがない)。その場合は仕事を続けることはできないから、仕事の選択自由があるとはいえ社会によって当の仕事の存在意義が評価され、その仕事が「するべきこと」かどうかが決まる。したがって、基本的には社会にとってするべきことを探索し発見できなければならないのであるが、発見されたするべきことが、当初は自分がすることとして想定していたものとは全く異なることも少なくない。つまり、選択の自由があるようで、最終的には社会システムによって選択されるものだと表現するほうが的を得ている。

  一方、組織に所属し、そのなかの秩序において仕事を得る者は、その組織にとっての「すること」に沿わなければならない。やりたくもない仕事を上司から命令されるとか、希望する仕事をまったくやらせてもらえなかったりと、多くの場合、「すること」は組織という小さな社会のなかで決められる。言い換えれば、現代の組織においても、組織内での仕事は支配者による役割分担であり、江戸時代の社会システムと変わらない側面を持つ。特に民間の企業組織にしろ、官公庁などの公的組織にしろ、そこでの仕事の様相としては、チョンマゲや帯刀こそ無いものの、現代になお残る封建制度そのものである。

  このように自営業であれ組織に身を置く場合であれ、仕事を自分で選択する真の自由というのはほぼ無いのが仕事の本質である。いずれにしろ、社会システムのために必要な行為のみが、生存可能な仕事となりうる。こうして、現代でもなお、仕事は自由の効かない「苦役」の意味を多分にもつ性質の行為なのだと考えることができる。

→つづく